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梅毒は性感染症の一つですが、放っておけば命を落とす恐ろしい病気です。

梅毒患者の広がり

最近、梅毒の感染報告がとても増えている状態にあります。

梅毒は性感染症の中でも、日本では患者数が低い状態で、エイズ感染が注目されるようになり、梅毒の予防への意識がとても少なくなったのも要因の1つかと思われます。

梅毒は特に2011年辺りから徐々に増えていき、2013年から急増したことが感染人数の統計でも見られるのです。

またこの急増の中には女性の感染者が特に増えています。

男性患者の約70%は30歳以上に対して女性患者の約60%が29歳以下なのです。

つまり男性は中高年が中心であり、女性は20代が多いという違いがあります。

2011年までは大体男性同士のセックスからの感染が多かったと言われていましたが、2011年以降は男女間のセックスによっての感染が多くなったと言えます。

では、何故このように梅毒患者が急増したのでしょう?

まず梅毒という病気は、昔は1度掛かってしまうと、今のようにペニシリンがなかったため、骨が溶け、巨大な腫瘤ができるなど辛い症状が起こり、最終的には命を落とすという恐ろしい病気でした。

しかし、ペニシリンができてからは、不治の病ではなくなったということもあり、治療することができるようになり疾患数もどんどん減っていったのです。

そのため、医師もわたしたちも梅毒への意識はとても低下していました。

梅毒の症状に対しての甘さがあり、早期発見ができない傾向があります。

第一期で梅毒と気付く人が少なく、第二期、第三期で梅毒と気付く人が多いため、それまでに感染がどんどん広がってしまうといった状況にあるのです。

また、他にも外国観光客が多く入国するようになり、外国人からの感染が増えたということも言えるようです。

特に中国などは人口は日本約10倍ですが、梅毒患者は日本の300倍とも言われており、人口に対しての梅毒患者数はとても多いのです。

他にも発展途上国では人口の1割が梅毒だという国もあるほど。

このようにグローバル時代に、まだ意識がついていっていない日本人にとって、このような病気の感染増加は当然なのかもしれません。

観光立国日本!

このような原因によって、日本人の梅毒患者が今急増しているのです。

 

梅毒の歴史

まずは関西から

梅毒の歴史の起源ははっきりしていません。

しかしコロンブスが、アメリカからヨーロッパに持ち込んだというふうに言われています。

1493年にはバルセロナで流行し、1945年にはナポリで大流行したのです。

ナポリではフランスから持ち込まれたということからフランス病といい、逆にフランスではナポリから持ち込まれたということからナポリ病と言い合うようになったとのこと。

その後インド航路の発見によってインドにも持ち込まれ、マレー半島を経由して中国にも持ち込まれました。

中国から日本にも梅毒が入り込み、特に関西で感染者が増え、そこから江戸に広がったと言われています。

吉原で急激に広がった

浅草の吉原などでは急激に広がり、多くの江戸の男性にも感染していったのです。

特に吉原でも身分の低い遊女の中で広がりが見られたことから、梅毒で苦しんで死んでいった遊女も多かったと言われています。

幕府幹部も梅毒だった

1776年にはオランダ人によって長崎に、劇的に梅毒を治す薬が持ち込まれましたが、これは現在の塩化第二水銀であり、1歩間違えれば水俣病のような苦しみがまっていました。

1757年に25歳という若さで、江戸日本橋に改行した医師として知られている杉田玄白が70歳になる頃書いた(1802年)回想録でも、1年間に1000人の患者を診るが、その中の700?800人は梅毒であると書かれています。

徳川家康の第二子結城秀康や加藤清正なども梅毒だったことで知られています。

日本では18世紀中頃まではほとんど梅毒患者がいなかったものの、19年の中頃には相当な人数で梅毒患者が存在したということから、100年の間に恐ろしいほど梅毒の感染に広がりがあったということが分かります。

古病理学による手法で当時江戸時代の梅毒に掛かっていた人は、江戸市民の約1割であったろうと発表しています。

つまり治るための手段がなかったことから、梅毒が原因で亡くなった人も相当いたということになるのです。

ペニシリンの登場

このような状態が続いていたものの、とうとう1940年代以降ペニシリンによる治療が日本でも行われるようになり、それとともに梅毒は恐ろしい病気ではなく完治する病気になったのです。

 

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